●捕食!咀嚼!嚥下!
人間は食べるときに、目の前の食べものを脳で認識し、その食べ方(一口量や大きさ,食具の選択など)を判断してから口を開けて捕食します。その後、咀嚼しながら形成された食塊は舌の運動によって口腔から咽頭へ送り込まれ、嚥下反射により咽頭から食道、そして胃へと移送されます。
“食べる”という行動において、口腔の咀嚼運動や咽頭の嚥下運動は非常に重要な役割を担います。前述のように、よく噛んで飲み込むことは、顎の発育や唾液の分泌、脳の活性、胃腸の補助などさまざまな効用に期待でき、まさに咀嚼は健康の保持・増進には欠かすことができません。
しかし、人間は口腔と咽頭のみで食べているわけではありません。脳における食事の記憶・判断や食欲,胃腸の調子などさまざまな要因が複雑に関与するため、”食べる力”の意味とは、広義では「口腔から食物を自発的に摂取し、健康維持に必要とされる栄養と心理的満足を十分 に獲得すること」ではないかと考えます。一方、機能的な問題に特化すると、狭義では「咀嚼により食塊形成し、誤嚥や窒息なく嚥下できること」ととらえられ、医療や介護の現場では食べることに対する安全管理や尊厳に配慮し、咀嚼訓練や摂食嚥下リハビリテーション、または食形態の調整・選択、食事介助が行われています。
つまり、”食べる力”とは”最期まで人間らしく生きる力”といっても過言ではありません。

●”食べるカ”は活きる力
食べることは人間にとって栄養摂取だけでなく、心の癒しや楽しみ、心理的満足にもつながるため、まさに”生活”の根幹といえます。”生活”という文字をよく見ると,”生きる”と”活きる”という2つの”いきる”が含まれています。”生きる”が生物学的寿命(平均寿命)とすれば,”活きる”は元気に活動できる寿命(健康寿命)を意味します。
さらに、”活”という文字は”(さんずい):唾液をイメージ”と“舌”から成り立ちます。つまり、”活”は、口腔機能を表している文字といっても過言ではありません。

●”老化”はいつから始まる!?
“老化”と聞くと、どんな状態をイメージしますか。背骨が曲がって杖をつきながらトボトボ歩くおじいさん? それとも、歯がなくなって 口元がシワシワになったおばあさん?このように、”老化=老人”というイメージは拭い去れません。しかし、信じられないかもしれませんが、”老化”は20〜30歳ころから始まっています。つまり、老化とは生きるうえで、時間のとともに誰もが経験する”生物学的活動性の衰退”といえます。そして、加齢に伴い、環境的にも身体的にもさまざまな変化が起こり、例外なく”食べる力”も衰えます。

● 侮れない”オーラルフレイル”
若いころは、味つけの濃いもの、脂っこいもの、硬いものなど気に入ったものは、お腹いっぱいになるまでたくさん食べることができます。しかし、加齢とともに”老化”が進行するとそうはいかなくなります。身体活動や代謝量が低下することによって食生活や食習慣は変化し、一度に摂取できる量も少なくなります。また、食欲はあっても歯数の減少や舌圧の低下により食塊形成が上手くできないと、食べたいものを思うように食べることができず、食事の質は低下します。本人はなんでも食べているつもりでも、無意識に噛めない食品を避けるようになり、手早く空腹が満たされる軟らかい麺類やお茶漬けなどを中心とした、炭水化物偏重の食生活に変化してしまうようです。これでは、カロリーを摂収できても栄養のバランスが悪く、特に、咀嚼を必要とする肉類を食べる機会が少なくなると、タンパク質が不足し、筋肉量が減って身体機能はさらに落ちていくことが危惧されます。これが、いわゆるオーラルフレイル(口腔の虚弱)も含めたフレイルの悪循環です。
また、オーラルフレイルは、認知症の早期発症を招く精神的フレイルを助長することも懸念されていて、”食べる力”の衰えが”老化”に伴う多様な問題を連鎖的に加速させてしまうと考えられます。

● 咀嚼良好者を増やそう!
咀嚼が十分にできないと、食べられる食材が限られるため偏在した食生活になりがちです。食生活が単調になると前述したフレイルの問題のように心身ともに衰退することが危惧されます。そのため、加齢とともに数値低下を示す咀嚼良好者の割合を増やそうと目標値が設定されています。2009(平成21)年に実施された国民健康・栄養調査での主観的咀嚼良好者の割合は、50歳代で78.2%、60歳代で73.4%、70歳以上で59.2%であり、年齢とともに大きく低下していました。これを見ると咀嚼良好者は、40歳ごろより徐々に低下し、60歳代で急激に低下する傾向にあることがわかります。そして、歯の保有数が少なければ「何でも噛んで食べることができる」と回答する人の割合は、減少しています。高齢期において口腔機能をできる限り維持することは、重症化予防の観点からも大きな意義を有します。
これらのことから、「60歳代における咀嚼良好者の増加」が「健康日本21(2次)」の目標項目に掲げられたのです。目標値としては、2009(平成21)年の時点で50歳代の主観的咀嚼 良好者の割合が78.2%であったことから、50歳代の状況の保持を目指すことを踏まえ、「60代における咀嚼良好者の割合」の目標値80%と設定されています。
咀嚼は、歯の状態や舌運動の巧緻性などのいくつかの要因が複合的に関係し、普段の食習慣を反映しているといえます。咀嚼できず、食べにくい食品があると、循環器系疾患による死亡率が1.8倍、呼吸器系疾患による死亡率1.9倍上昇し、口腔機能の低下が引き金となる寿命の短縮も報告されており 、咀嚼は口腔の問題のみならず全身の健康を左右することがわかります。

● 中年期は人生の分岐点!?
40歳から64歳の25年間(中年期)は、身体的、社会的、家庭的、心理的に変化の多い時期といわれています。また、安定と不安定、若さと老い、獲得と喪失が共存する時期でもあり、いままで積み重ねてきたものを問い直し、ときには人生の危機に直面する時期(ミッドライフ・クライス:Midlife crisis)でもあります。
このようになんとも言い難い混沌としたライフステージこそが”中年期”であり、健康格差も広がる時期と考えます。
特に、中年期は仕事や家庭の業務に追われ、ついつい食事に費やす時間を惜しんでしまう傾向にあります。時短ですませる食事の習慣化こそが口腔機能を低下させるきっかけとなり、高齢期における”食べる力”の低下を助長してしまう恐れがあるのです。

● 中年期にみられる”食べる力”の変化
歯科治療のため受診した中年期(40歳から64歳まで:平均54.3土5.5歳)の患者さん113人(男性35人,女性78人)を対象として、食生活について聞き取り調査を行ってみました。「『食』の変化チェックシート」を記入後に歯科医師が1)現在の歯数、2)最大舌圧、3)唾液湿潤度について診察し、現状の食生活と比較検討してみました
すると、歯数は、40歳代で平均26.8本、50歳代で25.7本、60歳代で24.2本と、中年期において徐々に減少する傾向にありまし。
普段の食事内容と比較すると,歯数が25本より少ない患者さんは,硬いものや繊維質の食品は食べにくいと感じていること、また歯数が26本より少ない患者さんは、食後に口腔内に食物残渣が溜まりやすいのを自覚していることがわかりました。唾液湿潤度と食習慣については数値上に特別な変化はみられませんでしたが、硬いものや繊維質の食品が食べにくいと回答した患者さんは、口の渇きを感じている傾向にありました。日々の食事パターンが単調であると回答した患者さんは最大舌圧が平均28.9kPaで、そうでない患者さんの平均32.3kPaより低い傾向でした。これより、歯数は満足に噛んで食べることができる食品数に関係し、わずかな期間であっても歯がないと食生活は簡素化する傾向にあり、その習慣が舌圧の低下をもたらす可能性があると推察されます。
わずか2、3本の歯の欠損くらい大したことはないと高を括り、食生活を軽視している中年層は多いように感じます。しかし、咀嚼機能の低下は徐々に始まっています。無意識に食べやすいものをばかりを摂取するようになると、さらに噛む回数は減少し、食塊形成に必要な舌の運動や唾液分泌の活動性は減少すると考えられます。

デンタルハイジーン参照